IEA「Global Hydrogen Review 2025」—ビジネス視点でやさしく・丁寧に
国際エネルギー機関(IEA)の「Global Hydrogen Review 2025」が発行されました。
本レポートは水素の「需要・供給・設備・政策」を一望できる資料です。
ここでは、誰でも簡単に要点をつかめるように、IEAレポートの内容を段階的に解説します。まず全体の結論を確認し、その後に基礎用語、今年のアップデート、需要と供給の現在地、電解装置の見方、政策と資金、日本企業の実務対応、チェックリスト、簡易FAQの順で整理します。
結論
- 世界の水素需要は2024年:約1億トン、2025年:1億トン超えの見通し。ただし伸びは主に既存用途(精製・化学)で、新用途はまだ1%未満。
- 低排出水素(グリーン/ブルーなど)は2024年0.8Mt、2025年1Mt見込み=需要全体の1%未満。一方で化石由来の水素が生む排出は約9.8億t-CO₂/年と大きい。
- 2030年の低排出水素供給見通しは37Mt/年に下方修正(昨年は49Mt)。「計画は多いが、実装が追いつかない」段階です。
ひと言で:いまは“絞り込みの時期”。実現性の高い案件に人・カネが集中する過程にあります。数だけを追うより、品質・契約・保守まで含めた“実装力”が重要です。
基礎用語(最小限の土台)
低排出水素(グリーン/ブルー)
製造時のCO₂排出を大きく減らした水素の総称。再エネ電力で水を電気分解するグリーン、化石由来に回収・貯留(CCUS)を組み合わせるブルーなどが含まれます。
FID(Final Investment Decision)
企業が正式に投資実行を決める節目。FIDを超えた案件は着工・建設に進む確度が高いと見なされます。
電解装置(AWE/PEM/SOEC/AEM)
電気で水から水素を作る設備。AWE(アルカリ:堅牢・コスト低め)、PEM(負荷追従に強い)、SOEC(高温で高効率が期待)/AEM(非貴金属触媒の可能性)など方式があります。コストは装置効率×電力価格や稼働率(キャパシティファクター)の影響が大きいです。方式ごとの整理は当サイトの技術解説が詳しいので、こちらの比較記事(AWE/PEM/SOEC/AEMとLCOHの考え方)も合わせてご覧ください。
LCOH(Levelized Cost of Hydrogen)
水素の平均製造コスト。電力価格、装置の電力消費(kWh/kg-H₂)、稼働率、CAPEX(総設置費 $/kW)、OPEX、資本コスト(WACC)で決まります。特にSOECは熱の統合(電力+熱)がLCOHに効く一方、起動・停止や耐久の前提が重要です。より詳しい前提と比較は、当サイトの解説「グリーン水素の製造技術を徹底比較:AWE・PEM・SOEC・AEMとLCOHの考え方」をご参照ください。
今年のアップデート(昨年からの変化)
1)供給見通しは37Mt/年に下方修正
背景:なぜ減ったのか
プロジェクトの遅延・中止・販売契約(オフテイク)の硬直が主因。一方で運転中・建設中・FID済みの積み上がりは着実で、「数の多さ」から「実現性の高さ」へ物差しが移っています。
2)需要は増えるが“中身”は既存用途中心
現状:新用途が伸びにくい理由
- 価格差:低排出水素は化石由来より高くなりがち。
- 制度不足:差額契約・義務化・証書などの仕組みがまだ不十分。
- 設備側の不確実性:長期保守・部品供給・性能保証が整うまで時間がかかる。
鍵:制度と契約で“橋を架ける”
価格差を埋める公的制度と、数量・価格に最低限の見通しを与える民間契約を組み合わせることで、新用途の量が動きやすくなります。
3)装置は「作れる」が「売れにくい」局面
数字:電解槽の製造能力38GW/年に対し、実際の出荷・稼働は約4GW
需給の立ち上がりギャップに加え、金融機関・需要家が品質・納期・長期保守を重視しています。2030年に向け世界の製造能力は186GW/年へ拡大見通しで、供給地域の分散が進みます。
需要と供給の現在地
需要(Demand)—どこで使われているか
2024年:約1億トン(前年比+2%)。2025年:1億トン超えの見通しです。内訳の中心は、石油精製(硫黄分除去など)と化学(アンモニア・メタノール)で、ここが需要の大半を占めます。鉄鋼(DRI-H₂)、発電、合成燃料(SAF/eメタノール等)はまだ1%未満の立ち上がり段階ですが、制度整備が進むと一気に量が動く可能性があります。
需要を押し上げる要因
- 規制・義務:精製の脱硫・低炭素製品基準、鉄鋼の低炭素化ロードマップなど。
- 価格シグナル:炭素価格・燃料税・補助金により、低排出水素の相対競争力が改善。
- 顧客要請:サプライチェーンでのScope 3削減、グリーン製品の需要増。
供給(Supply)—どう作られているか
現時点の供給は化石由来が大半(天然ガス改質・石炭ガス化・副生水素)。低排出水素は2024年0.8Mt(全体の1%未満)で、2025年1Mtが見込まれます。低排出の内訳は、グリーン(水電解)とブルー(CCUS付き化石由来)が中心。量の伸びを阻むのは、安価で安定した電力の確保、装置の実装・保守、長期オフテイクの3点です。
供給サイドの論点
- 電力×効率×稼働率:LCOHの決定要因。詳細はLCOH解説を参照。
- 装置の金融性:SLA(稼働・性能保証)とO&Mが融資の鍵。スペア・代替供給の計画がリスク低減。
- 証書・定義:低排出の認定条件(追加性・同時性・立地)と、越境時の証書互換性。
排出(Emissions)—いま何が課題か
化石由来水素に伴う排出は約9.8億t-CO₂/年。短期の削減には、既存設備へのCCUS適用、副生水素の最適利用、電化・電解の拡大を並行で進めることが有効です。
地域(Regions)—どこが先行しているか
中国が装置の量産・導入で先行し、欧州・米国が制度と需要側の整備で追随。東南アジアは再エネ資源と近接性から、グリーン燃料の供給地として注目が高まっています。
電解装置の見方
方式別のざっくり特徴
- AWE(アルカリ):成熟度高め、コスト相対的に低い。大型案件で採用例が多い。
- PEM:負荷追従・コンパクト性に強み。再エネ変動対応や狭小地で有利。
- SOEC:高温で高効率が期待。熱源との統合が前提。
- AEM:非貴金属触媒などで低CAPEXが期待される一方、耐久データの蓄積が進行中。
それぞれのCAPEX・電力消費(kWh/kg)・負荷追従性・TRLの比較や、LCOHの前提は当サイトの解説にまとめています。詳細はグリーン水素の製造技術比較とLCOHの考え方をご参照ください。
コストは電力×効率×稼働率でほぼ決まる
LCOHは、①電力単価(円/kWh)、②装置の電力消費(kWh/kg-H₂)、③稼働率(キャパシティファクター)の三つが主因です。ここに④CAPEX(総設置費 $/kW)と⑤OPEX、⑥WACCが重なります。方式別の効率差や、SOECの熱統合といった前提が、同じ電力価格でも結果を変えます。考え方の詳細は当サイトのLCOH解説に沿ってご確認ください。
政策と資金(価格差をどう埋めるか)
輸入支援:差額契約で約10年の価格見通し
差額契約(例:H2Global)により、売り手・買い手の価格不確実性を低減し、オフテイクの硬さを高めます。契約実務では、基準指標(Index)、上限・下限、カーボンインテンシティ(CI)要件、供給中断時の代替手当を明確にします。
製造支援・税制:国内回帰と分散を後押し
各国が製造補助・税額控除を拡充。装置価格の低減と供給安定に効きます。企業側は、サプライヤの地域分散、在庫ポリシー、予備品の確保を制度と併せて設計し、調達リスクを数値化して金融機関に示すのが有効です。
需要創出:義務・差額契約・証書の組み合わせ
製鉄・精製・化学・運輸などで導入義務・差額契約・証書を組み合わせ、初期の価格差を政策的に吸収。民間は、最小保証+可変の価格式で契約設計し、ボリュームを段階的に積み上げます。
筆者の視点
今回のIEAレポートを読み込んで、まず強く感じたのは、いまはやはり「絞り込みの時期」だということです。
表面の数字だけを見ると「伸び悩み」と映りますが、内実は“計画のふるい落とし”と“装置産業の地ならし”が進む健全な過程ではないか——そう受け止めました。だからこそ、私は「規模」よりも“実装力”に目を向けたい。
供給側を見渡すと、中国の量産力とコスト優位は無視できません。一方で欧州・米国は制度と需要側の設計で着実に土台を固めている印象です。日本はこの間に立ち、電力調達の安定化(PPA/CFD等)と装置の金融性(長期O&M+予備品)をセットで作り込めば、国際案件でも勝ち筋が見えるはずです。
特に東南アジアは距離と時差の優位があり、私は共同投資×需要家連携で早めに「実績」を積むことが、日本企業にとっての近道だと感じます。
また、議論が「効率の数値」だけに寄りがちなのも気になります。実務では、効率の高さより“その効率が何時間、何年、いくらの保守コストで維持できるか”が効いてきます。私はLCOHを語るとき、必ず電力単価・装置の電力消費・稼働率の三つを同じ土俵で考えるべきだと思います。考え方の基礎は当サイトの解説をご覧ください。
簡易FAQ(よくある疑問)
Q1. なぜ“1%未満”なのに重要なの?
量は小さくても、制度・装置・契約を整える初期段階です。ここを乗り切ると、スケールの経済が効きやすくなります。
Q2. 最初に何から手を付ければいい?
LCOHの三点見積で採算の“筋”を確認し、同時にSLA雛形とオフテイク案を作って金融性を見せるのが近道です。LCOHの前提整理はこちらの技術解説が参考になります。
Q3. 装置方式はどう選ぶ?
現場条件(電力の質・価格、スペース、追従性、熱源の有無)で一次選定し、サプライヤのSLAと保守体制で最終決定します。方式ごとの長所・留意点は当サイトの比較記事をご確認ください。
Q4. LCOHはどんな条件で下げられる?
安価で安定した電力(長期PPAやCFD)、高効率の装置(BOLだけでなくEOLも視野)、稼働率の確保(電源・操業計画の最適化)、CAPEX/OPEXの圧縮(量産・保守設計)、WACCの低減(与信の見せ方)が効果的です。SOECは熱統合で電力消費を抑えられる一方、熱源コストや停止/起動の前提を織り込む必要があります。基本的な考え方はLCOHの解説と整合しています。
Q5. AEMやSOECは「いつ」本格化する?
AEMは非貴金属触媒などコスト面の魅力がある一方、現時点では耐久データの蓄積が進行中。SOECは高温・高効率が武器ですが、熱統合・材料耐久の前提形成が必要です。いずれも商用化の鍵はSLAとO&M設計、および安定電源との統合です。